こころに騙されないために

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こころに騙されないために

独学で心理学を学んでいます

好き/嫌い

散文
何かを褒めるときに、やたらと他の何かと比べてそれをけなしながら褒めようとする人がいる。
「酸っぱいぶどう」のようなケースもあるかもしれないけど、こういうのを見ると、「褒めるのはいいけど、他のものを貶さずに褒めることはできないのかな」とつい思う。
けれど、考えてみれば他の何かについて少しも貶さずに何かを褒めるということはそもそもできないのかもしれない。

褒めること、つまり「良い」という価値判断を下す時には、何か他の対象と比べることで、相対的に「良い」と言うことしかできない。「iPhone6は画面が大きいし、処理速度が速くて、良い」と思う時、画面が大きくないものや、処理速度が速くない比較対象のイメージも同時に脳裏に浮かんでいるはずだ。だから何かに「イイネ!」ということと、「ダメダネ」ということとは表裏一体の関係にあるわけだ。もちろん、「ダメダネ」は実体ではなく、イデアのような何かとしてある場合もあるだろうけど。

しかし一方で、「好き」は無敵だ。「好き」にはあらゆる価値観を転覆させる力がある。「悪いから好き」と言うことだってできるのだ。同様に「嫌い」も強い。よくカップルで嫌われた側がなんとかフられまいと頑張っているという状況があるけれど、あれはほとんど無力なわけだ。一度嫌いになってしまうともう一度好きにならない限り、あとに残るのは利益、損益のバランスシートだけ。プラスマイナス繰り返す長い筆算の結果プラスなら、まだフられないかもしれないけど、それはもう恋とは呼ばれることはない。



そう考えてみると、「好き、嫌い」がどれだけ感性によった状態なのかがよくわかる。「良い、悪い」といった価値観なんて、それに比べれば全く些細なものなわけだ。どちらかというと、価値観とは感性の皮を被った理性だとも言える。

結局何かを褒める時だってそういう巨大な感性に支配されているのかもしれない。音楽や絵画を褒める時もそうだ。ある曲が好きで、その理由を訊かれた時なんかもそう。「この主旋律が、ベースが、リズムが、〜etc.」。そうやって部分的に良いところは挙げられるけれど、じゃあそこだけでも好きになれるかとか、そこがなくなったら好きじゃないのかという話でもない。

「私のどこが好きなの?」
「かわいいところ」
「じゃあかわいい子ならだれでも良いの?」
という問答もあるけれど、結論から言えばかわいくなくてもあなたなら好きなわけだ。
構成要素の良い悪い話ではなく、全体としての好き嫌いの話なんだ。

だからこそ、好きって言われたらなにもかも許容された気分になってしまうし幸福なんだろうと思う。だからこそ、とりつかれたように恋してしまうのだと思う。

結局何が言いたいのかというとこう。
みんなどんどん好きって言おう(メンヘラ)
という話でした。

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