こころに騙されないために

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こころに騙されないために

毎日21時に書評ツイートする人のブログ

「才能探し」をやめてから、人生が楽しくなった

堀江貴文さんの著書『ゼロ』を読みました。四年前の本だけど未だにブログやTwitterなどで取り上げられるし、36万部売れているほど影響力のある本です。

 

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 

 

この本自体は堀江さんのこれまでの人生を踏まえた上で、彼のいくつかの主張を丁寧に論じた本です。いろいろな視点やテーマが取り上げられていますが、私は「なにもない自分に小さなイチを足していく」というサブタイトルを読んだときにふと思うところがありました。堀江さんの言いたいことがなんとなく、読まずともわかる気がしたのです。

彼らの声を聞いていて感じるのは、みんな「掛け算の答え」を求めている、ということだ。もっとわかりやすい言葉を使うなら、成功へのショートカットを求め、どうすればラクをしながら成功できるか考えている。

(中略)

つまり、掛け算の答えを求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。

そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。

物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなくてはならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。ほんとうの成功とは、そこからはじまるのだ。

堀江貴文『ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく』P.28

私はつい最近、これに近いことをずっと考えていました。少し前の自分はずっと掛け算の答えばかりを探し、見つからずに絶望する。その繰り返しでした。今の自分は少しずつ、イチを積み上げ、成長している。そんな気がします。

もちろん堀江さんの考えていることとは厳密には異なるだろうと思いますが、それほど大きくは違わないとも思います。今回は、それについて書いていきます。

 

諦められなかった「才能探し」

私にとっての「掛け算の答え」は「自分には、まだ見つかっていない、すごい才能がどこかにあるのではないか」という妄想でした。多くの人が中高生あたりまでこういった考え方をしているかもしれませんが、私の場合大学生まで長引いていました。

中学生の頃からライトノベルや純文学に興味を持ち、自分には小説を書くすごい才能があるのではないかと考えて小説を書き始め、新人賞に応募したりしました。高校1年生になると詩に切り替えて友人にも披露したりしていました。しかし、結局どれも大した成果が出ませんでした。

次の対象は音楽でした。ベースギターから始めアコースティックギター、それからカオシレーターエレクトライブといったシンセサイザーを触り始めました。どれも面白かったのですが、途中で飽きてしまい辞めました。音楽自体に飽きるというよりも、音楽に才能のない自分を確認したので、失望してしまったという感覚でした。

私は小説や音楽を純粋に楽しいからやっていたというよりも、「何かに特化した才能がある自分」を発見するためにいろんなものを試していたということに近いと思っています。

自分はパッとしない人間だが、どこかに何かの才能が眠っているはずだ。それを探すんだ、という発想です。でも、大抵の人がそうであるように、もちろん見つかりませんでした。

努力によって達成したことまで、才能と勘違いする

私が初めて、「才能探し」をやめて、「足し算」、つまり少しずつの地道な努力を行うようになったのは、大学受験の時です。私はそれまで勉強嫌いで、偏差値の低い高校の中でもさらに偏差値の低い生徒でした。しかしながら、ある日突然勉強が楽しくなり、継続的に勉強するようになりました。急に勉強するようになったので成績は上昇し、一浪はしましたが、母校から進学するのはかなり珍しいMARCHクラスの大学に進学することができました。

 しかしながら、私の行動は「足し算」に変わっていても、頭の中はまだ「掛け算」の思想がたっぷり残っていました。そのため、努力によって達成した成績の上昇という結果に対して、「そうか、自分は頭がいいんだ!勉強の才能があるんだ!」という誤った理由を考えてしまったのです。

その考え方のなれのはてが、「学歴コンプ」でした。

 偏差値40の底辺高校で3年までろくに勉強してこなかったくせに、3年になってから勉強が面白く感じるようになり、授業中も勝手に自分で選んだ教材で勉強したり、家に帰ってからも自主的に勉強するようになりました。そのせいか成績も伸びるようになり、学年順位もあがるようになりました。

ここで、私がまず思ったのは、「あれ、自分頭良い? 東大も夢じゃないんじゃね? 」でした。 

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自分のバカなりに積み上げた正当な努力によって得ることができた成果も、才能のおかげだと勘違いしてしまったのです。

 

「才能探し」思考の問題点

この「才能探し」の考え方の悪いところは、まず楽しくない、精神的につらいということです。

もしかして自分には〇〇の才能があるのでは、という無駄な希望を抱いて、すぐに自分の平凡さに気づいて失望する。これの繰り返しです。自分の才能のなさに気づくたびにどんどんつらい気分になっていきます。まるで、存在しない埋蔵金を信じて地面を掘り続けているような気分です。

 そして何よりも問題なのは、自分の人生に全くプラスにならないということです。小説や音楽も、才能がないと気づいた後にも継続していればそのうちに上達し、何らかの成果が出たかもしれません。しかし継続せず、すぐに次の「才能候補」へ向かっていってしまうので何も身につきません。残るのは「才能のない自分」という自己認識だけです。

「興味と好みと得意」の組み合わせで生きていく

実は自分の中で「才能探し」をやめる何か決定的な出来事というものがあったわけではありません。大学生活を送る中で徐々に「掛け算」から「足し算」に移り変わりました。

1つのきっかけとしては、それまでよりもはるかに多くの学生や社会人と関わるようになったことがあるかもしてません。実際には、突出した1つの才能だけで食べていけるような人はほとんど存在しないということに、ようやく気づいたのです。

多くの人は、自分に才能がないことを認めています。それでも興味のあることや好きなこと、得意なことを組み合わせて、少しづつ地道にできることを拡大しているように感じました。

私はそれからだんだんと、「足し算」思考ができるようになっていきました。自分なかにあるちいさな興味や得意なことを見つけて、少しずつ伸ばしていく。

例えば心理学の知識や、最近ではこのブログなんかが、今現在少しずつ継続して伸ばしていることの1つです。

「足し算」思考は楽しい!

「足し算」思考にだんだんと切り替わってから、私は人生を楽しんでいる実感が増えました。なぜなら、今日よりも明日、明日よりも明後日の自分は今よりも少し成長しているということが確信できるようになったからです。

「才能探し」思考では「平凡さ」を痛感し失望してばかりの毎日だったのが、「足し算」思考によって少しずつですが確かな成長の実感が味わえる日々に変わったのです。

「才能探し」が存在しない埋蔵金探しであるのに対して、「足し算」は確実にレベルをあげていきいつかは魔王を倒せるRPGのような世界観です。

 「才能探し」を諦めるには、平凡な自分を受けれるという苦痛が伴います。しかし、一度諦めて「足し算」に切り替えることができれば、それまでより格段に人生を楽しめる、成長できる自分になれるのです。

 

もしも、私と同じ「才能探し」で苦しんでいる方にこの文章で何かしらのヒントを得てもらえたら幸いです。

 

 

 

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